吉崎達彦著「1985年」

いい意味で知的「王様のアイデア」のような本です。著者と同年代の僕にとって、1985年以降の社会的なできごとは、時系列が混乱しがちで、そういう頭の中を整理するのにお役立ちです。例えば、1985年の円高の背景と1995年の円高の背景、筑波博と花博、渡辺淳一の「化身」と「失楽園」のストーリーをごちゃごちゃに混じって記憶していたりして困ります。渡辺淳一の小説などは、間違えたところで実害はないですが、博覧会などは、著者も指摘されているとおり、誰と何を見たかくらい思い出しておかないと、実生活で困ることもあるかと思います。

そうしてみると、僕が歳をとってからの記憶に鮮明さがないからというだけでなく、日本というのは1985年以降の出来事について、どこか似たようなことの繰り返しが多く、記憶違いが生じやすいように思えてきます。著者が端的に指摘しているように1985年の日本は、まさに「午後2時の太陽」であり、それ以後の成長は、限られたものといえるのでしょう。結局、似たようなことが繰り返し行われており、その繰り返しの一回目が1985年頃に集中して起こっていると、改めて気付かされます。

僕自身もこの頃、身内と「今が日本も頂点かもしれない」と話したのを覚えています。社会全体に、幸福の絶頂感とまでは言いがたいが、確かな一つの達成感がありました。そしてこの達成した後の時代は、大変だぞ、だからこそ、見ていて面白そうだぞと思ったものです。そんな思いで、雪斎さんが懐かしく思い出されている「やわらかい個人主義の誕生」(山崎正和)を、僕も熱心に読んだものです。(この吉崎さんの「1985年」を読んで、山崎正和の「おんりいいぇすたでい」なるエッセイのシリーズを思い出したのは、僕だけではないでしょう。)

つまり、世界で誰も知らない「豊かな時代」以降の社会がどうなるのかという問いへの答えを、幸いにも日本で生まれた自分は、まぢかで見物できそうだと思っていました。この視点で世の中を見ることは、バブルの崩壊など思っていた以上の暗い面もありましたが、概ね期待通り好奇心を満足させてくれました。そして、今、いかにも現代的なblogに足を突っ込んでいるという訳です。

以前に、吉崎さんの「アメリカの論理」について書いたこと(ココ)の繰り返しになりますが、社会的な事象を自然体でスパッと切る著者の手際には、今回も感心します。
次から次へと色んな文をしかも水準以上のレベルで書かれて一体どうやって時間をやりくるしているのだろうと、不思議になるほどです。また、次にどんな本が出てくるのだろうと楽しみにしています。

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この記事へのコメント

らくちん
2005年09月04日 10:08
当時、僕は、あの本が大好きだったのですが、周囲に共感できる人がいなくて寂しかったのを覚えています。雪斎さん、どこかで、お会いできることを楽しみにしております。
雪斎
2005年09月02日 13:45
はじめまして…でしょうか。
あの頃の雰囲気を考えると、山崎正和先生の書には、かなり影響を受けたものです。あの「やわらかい…」という発想は、それまでの「硬い」イデオロギー対立の議論を飛び越えたように思ったものです。もったも、「硬い」議論がお好きな人々は、まだ残っていますが…。

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